芸術性理論研究室:
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01.01.2009
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-3.10
Under Ubiquitous
 

以下は毎期末に更新する慰安としてのコラムです。当研究室の本分ではありません。

 

母体となるコア・システムをひとつ用意して、様々な知識・データーを保管させ、社会的共有項として解放したとします。遠隔するユーザーは特別な家電製品によって身体を拡大せずとも、『意志ひとつ』で直感・直知的に母体へアクセスし、思いどおりの知識を取得し、尚かつ、ある程度の『技術取得』までできたとしたら、一部の似非科学が夢見る「ユビキタス」や、サイエンス・フィクションが『ニューロマンサー』等で発明した「電脳」は、とりあえずの完成へと至ります。人種・性別・年齢・国籍・文化や時間・場所に関係なく、超出自・超パースペクティブ的に、誰もが「同じ」知識・マニュアルを入手し、 ─身体の構造的格差は残るものの─ 身体制御の再構成を行なえたなら、見せかけのコミュニケーション領域は広がり、能力向上とともに自由な時間が増大し、個人の生活は安定していくかもしれません。

しかし、ここには大きな早計・誤謬があります。まずは「技術革新は新しい職業を生むと同時に、古くからある職業を殺す」という昔からある命題・原理に従って、ユビキタスのリスクを確認してみます。知識や技術を平均化すれば、二次的な伝道職は縮小せざるをえなくなり、教職者や開業医は街を去り、職人達は手を奪われてしまいます。「そんなことは誰もが知っているし、誰でもできること」が遍在し、人は他者を特別には必要としなくなることでしょう。コア・システムは直感・直知できるアーカイブなので、コア・システム自体を管理し、更新していく第一的な制作者とユーザーの間に主従関係(著作権)は生まれず、没個性的な等質社会ができあがり、動因を失った「死んだ社会=平和」がひらけます。社会の最小単位は「関係」になるので、個々人の能力差による時間差は問題にならず、アド・ホックに「間」が満たされるジェネラリズムが原理になります。しかし、これは即座に共産主義を意味しません。むしろ、経済原理自体がゆらぎ、パレート最適だけが課題として残る原初カオスへの回帰です。

ユビキタスの社会化は、同時性によって反社会的な性格を含み、『人』から基本営為のひとつを奪います。必要な時に必要な知識と技術を得られるテクノロジーは「予め覚えておく必要性」がなくなり、「学習」が不必要になります。平均点が満点になるので、テストは「個」を社会化する役目を果たさなくなり、他者の名前を失っていきます。過激なまでに構造化された社会的プラトニズムの共有は、知や心の力を蔑ろにして、身体と資源を奪い合うことのみにあくせくしていくことでしょう。自律は自充を意味しているわけではないため、ユビキタスというデーター通信が「外部からの感覚与件」を操作し、懐疑不可能な環境制作を行なうか、もしくはデーター通信なみの物質移動・複製のテクノロジーを実装しない限りは、「生活自体」だけが残り続けます。

この時、都会化され「生の全体」を忘れてしまった現代人の大部分が、日常生活の中に新たに従事しなければならなくなる項目が付け加えられ、恐怖することでしょう。草木や家畜を育て、代換不可能な食材を得る農作業が必須項になります。土や泥で手足を汚し、蠕動する幼虫達と格闘し、堆肥の臭いにむせ返り、断末魔を聞きながら血飛沫を浴びる毎日が訪れます。それは「覚悟と情」との対峙であり、ユビキタスや電脳では埋められない、拭いきれない心との再会を意味します。

芸術も、人文も、科学も、いつかやがてはその役目を終え、万人へと委ねられ、貪られます。思想なく作りたいだけで用意された技術至上も、そのひとつです。本来、技術や分業は、個々の「余暇」を確保し、『人』であるための智を満たす時間を提供するものであり、目的や内容を意味すべきものではないのですが、ユビキタスや電脳という方法は知的生産を解放すると同時に、大半の動機付けを無効化し、『人』を「生命」へと回帰させてしまいます。既に始まっている世界に産み落とされた者の「回帰」は「土いじり」に多くのディレンマを感じ、「向かうべき先なき原初」に立ち往生することでしょう。

2008年度秋期 ─了─

 

2009年1月1日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008